【半世紀の人生を振り返って】
私の人生を振り返り....
2021年2月、外は深閑と雪が降っています。永い冬を過ごしています。
窓をみて見ると窓は凍っていて、草の模様が出来ており、とても綺麗でこの模様に癒されています。
今年で40代も終わり、いよいよ50歳になります。
半世紀を過ごしてきて今思う事、とても暑い南国で生まれて、家の周りは沢山の田んぼ、自然はありましたが、他にはほとんど何もありませんでした。
それでも、私の遊び場所は無限にありました。
田んぼとその用水路、川で魚やおたまじゃくしを捕まえたりしてました。神社にある池や神社の境内の軒下に居た蟻地獄で遊んだり、南国にだけあると思われるソテツの実を取って遊んだり、他にも無限に遊ぶ場所がありました。
そのような環境でのんびりと過ごして来た幼少期です。
幼少期には友達がいた記憶が無く、ほとんど一人で遊び、過ごして来た記憶があります。
それでとても泣き虫でした。
小学生になり、勉強するのは嫌いで、やはり友達もいませんでしたが、小学2年の時変化が訪れてS君という少し悪ガキのような丸坊主の友達が出来ました。
彼は積極的な友達で、私の家とは離れていましたが、彼は自転車で私の家まで来てポカリスエットの粉を買ってきては2人で食べて、気の向くままに遊んでいました。
また、よく年下の友達と良く遊んでいた記憶があります。年下の子供たちと遊ぶのは気が楽で自然体でいる事が出来ていました。
中学生になると陰キャラな友達。また2人組の悪友達ができました。
残念なことに小学校の時のS君とは距離が出来てしまいました。
中学校、高校の時は新聞配達をしていました。時には新聞のチラシを挟むバイトをしたり、また朝刊をしながら夕刊の配達もしていました。
新聞配達は人との関わりが無く、私には合っていましたが、大変だと思った事はありませんでした。
今思えば、新聞配達をやって忍耐力を養われました。その経験は今に活かされていると感じます。
雨の日も、寒い日も、台風の日も配達を頑張っていました。
朝早いのはちょっときつい時もあり、時には寝坊して配達が終わるのが遅くなり、学校を遅刻した事もありました。学校の授業では居眠りしている事が多かったと思います。
そして嬉しかった事がありました、それは正月の配達の時でした。
正月の新聞はいつもの新聞の3倍くらい分厚くて、またチラシの量もとても多かったので、自転車で配達する事は無理でした。
それで父親に手伝ってもらい車で配達をしてもらった事を思い出します。
退屈な高校生生活を送りながら、友達に教えてもらったプリプリとか、パンクバンドのラフィンノーズとか、X JAPANなど聞いていました。
とにかく激しいロックのサウンドが好きでした。
また、自分に自信がなく、生き甲斐も、やり甲斐もなく、また寂しい生活を送ってました。
それは何かと言うと妹がテニス部に入っておりました。
テニスの大会などに参加しては賞をもらっていたり、父親もそのうち妹の事が気になり始めたのか、自営業の仕事を早めに終わらせて、妹の部活している所へ積極的に行ってました。
その様子を見て、私は長男なのにとても寂しい思いをしてきました。
そして早くこの家から抜け出したいと思い考えていました。
その寂しさ、ストレスを激しい音楽を聴く事で紛らわしていたのかもしれません。
そして高校卒業し、陸上自衛隊へ入隊しました。そして子供の頃からの憧れだった北海道を希望して北海道へ来ました。
今思う事は北海道の生活は夢だったのだと、そしてその夢は叶ったのだと、この日記を書きながら気づきました。
自衛隊へ入隊し、北海道へ来て私の人生で初めて北海道、雪が降るのを見て、雪を初めて感じてとても嬉しかった記憶があります。
そして冬の生活に慣れていない私は積もった雪の上で転んんでばかりでした。( ◠‿◠ )
後々、冬靴という物があることを知りました。
そして、夏には演習場へ行って山の中での生活をしたり、時にはマラソン大会をしたり、冬には演習場で走るスキーをしたり、雪まつりの雪像作りをしたり、普通に生活していたらなかなか経験出来ない事を沢山してきました。
走るのが嫌いだった私はいつもこのマラソン大会に参加するのが嫌いでした。
しかしある時にある言葉に出会いました。それは自分を啓発してくれる言葉でした。
「マイナス思考よりも、プラス思考で生きることが人生での生活での勝利者になれる」と
それから私は決意しました。仕事が終わると、誰にも気づかれないよう非常階段で特訓をしました。
両足に錘をつけて登ったり降ったり、腹筋したりして一汗かいてからアパートまで走って通う生活を数ヶ月続けました。
走る事が苦でなく、どんどん人を追い抜いていけました。嘘のように体が軽かったのを覚えてます。
結果は優勝までにはいきませんでしたが、今までのマラソン大会に参加した中では格段に順位が上がっておりました。
周りの人は「今まで爪を隠していたな」とか言っておりましたが、私はこの時の事をとおして努力した事は報われるのだなと実感した大会でした。
それから自衛隊を5年ほど勤務して退職しました。
それからまもなく会社員として就職しました。
ここでは20年という長い期間過ごして来ました。色々な仕事をして来ました。
そして色々な人間模様も見てきました。
楽しい事も、辛いこともありました。
人を助けたことも助けられた事も沢山ありました。
そしてこの期間で素敵なパートナーと出会い、そして沢山の子女にも恵まれて今幸せに過ごしております。
それなのになぜこの職場を離れて、違う職場を求めているのか?
この職場は私には合っている職場だったと思います。表に出ない内務の仕事です。
そして評価される事はありません。
そして、この内務の仕事は沢山あります。やって当たり前でやらなければ叱責される事もありました。
そのような環境で過ごしてきて、数年前から職場に特別な仕事のミッションが加わりました。
それからというもの、今までこなしてきた仕事を行うことが不可能になり多忙な仕事となりました。
またこのミッションは今までの仕事では無かった強烈な緊張感と時間に追われるストレスを感じながら失敗も出来ない仕事でした。
そのような忙しい仕事でしたので、同じ部署の人に助けを求めるものも手伝ってもらえる事もなく、一人辛い思いをして来ました。
同じ部署の人が人事で変わりましたが、新しく来た人もやはり手伝ってもらえない状態でした。
そのような生活を送りながら、上司がたまに息抜きに外へ出かける時にでも、私はそのミッションがあるためにどこへ行くことも出来ませんでした。
そのミッションが悪いのでもないし、同じ部署の人が悪いのでもありません。
ただ、私が不器用だったのです。この大変な状態を上司などに相談して、仕事を軽減してもらったりしていれば、ここまで大変で無かったのかもしれません。
そしてこのミッションが始まって、数年経つ頃に私の体調が色々と悪くなってくるのでした。
頭痛、肩こり、腰痛、体のだるさ、手の痺れ、胸の苦しみ、疲れなどあり、毎日栄養ドリンクや缶コーヒーを飲む生活。
その反動でまた体がだるくなったり、集中力が落ちたりしていました。
このミッションは決められた時間にPC入力して完了しなければならないものです。
上司が他部署に負けない思いがあり、沢山の量を入れてくるのです。それなのでこの上司がOKしないと入力も始めれないのです。
時には入力して確認作業をしているにも関わらず、追加をされてしまい、もう一度ゼロからやり直すという事が、一度や二度ではありませんでした。(T_T)
時には私が失敗して激しく叱責されることもありました。
正直、この上司が怖くて私はビクビクしながら仕事をしていたと思います。
そのような仕事を行なっているときに、私があまりにも具合が悪かったので病院をあちらこちらと何件か行き検査をしました。しかしどこにも以上は見つかりませんでした。
そして精神的なものではないかと思い、精神科へすると診断結果が「うつ病」と診断されました。
そこから職場の相談窓口へ相談して、私は休職することになりました。
今まで激務の中過ごして来た生活から一変、何もしない生活に変わりました。
それから図書館やネットなどでうつ病に関することを調べまくりました。
うつ病は現代医学ではまだ全てが解明されていない事。そしてゆっくりとした生活スタイルの中で、朝散歩するのが良い事。
無理をしないこと、そして家族の理解が必要なこと。患者に対して「頑張れ」とか言わないことなどでした。
そして数ヶ月して傷病手当金など申請してゆっくりとした生活を過ごして来ました。
もう普通の仕事が出来るのではないかと考えていました。
しかし冬になり雪が降ったり曇ったりしていていると、散歩へ行く気にもならないし、何もやりたくない、何も出来なくなりました。
秋までは料理も作れていたのにそれも出来なくなっていて、まだ完全に治っていないんだと実感しています。
一ヶ月後には退職する予定で、退職の手続きをすること、そして仕事も探していくので、ハローワークへ登録しに行ったり、リワークプログラムも良さそうな所を見つけたので相談へ行く手続きをしました。
毎日不安な気持ち、焦る気持ちなどあり、また病気になってしまうのではないかと思うほど不安な毎日です。
それでも「何とかなる」と自分に言い聞かせながらポジティブ思考で過ごしています。
人生50年という節目です。私もターニングポイントなんだと考えています。
近い将来に以前より前向きに、そして自分がやりたい事が出来ている事を夢見ながら、またそれを確信して家族を守りながら生きていこうと思いました。